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読書備忘録#7_世界失敗製品図鑑

読書備忘録#7_世界失敗製品図鑑
荒木博行さん

【読もうと思った動機】
勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。これは、過去の書籍から得た教訓である。確かに、ゲームとかやってても何で勝ったのかわからないけど、負けた時は何かしら自分の落ち度があることが経験としてある。自責という言葉がある。今後成長していくうえで、人のせいにばかりしていたら、成長はない。まず一歩目は自責で考えて、失敗から学習することで、今後の成長が見込めると考えたため、この本を手に取った。


【概要】
実際に発生した、20の事例を取り上げ、それぞれに対して製品紹介と失敗に至った経緯、そしてその原因とそこから得られるメッセージを述べている。20の事例は、3C分析のCustomer,Comptetitor,Company、そしてPESTという大きく4つに分類している。よく知っている製品や自分が買ったことのある製品、全く知らない製品などあり、とても興味深い。あと、重要な点として、この本は失敗という少しネガティブな印象を受ける本であったが、内容はとてもポジティブで、挑戦する勇気、失敗から学んで次に生かすことの重要性を説いており、成功に向かって走り続ける人のよい伴走者になりうる本だと感じた。


■はじめに
試行錯誤のしやすさ。ポジティブリストよりも、ネガティブリスト=これだけは避けておくべしの方がやりやすい。可能性が広がる。
この本における失敗の定義は以下。
「高い期待値を持ってスタートしながらも、想定通りの結果を出せずに途中で挫折せざるを得なかった製品・サービス・事業」
これだと、皆さんの身の回りでもよく起きうることで、それこそが狙い。身近さから来る学びのダイレクトさが狙い。リアリティを感じてほしい。
リサーチは、すべて公開情報のみ。重要なのは、我々がどうしていくかの解釈。
失敗は必ずしも避けるべきことではない、というのが何より伝えたいメッセージ。過去の先人と同じ失敗を繰り返すことは回避すべき。しかし、新しいことにチャレンジする以上、失敗はついてくる。「チャレンジ」と「失敗」はセットメニューであり、単品注文はできない。この本の事例の企業は、手痛い失敗を経験しながらもその失敗を教訓に変えて今日の成功へとつなげていっている。過去の失敗から学びつつ、過度に失敗を恐れずにチャレンジしてほしい。 その通りだと思う。リスクとリターンをきちんと判断する。

 

<事業の構造編>
■ユーザ視点を学ぶ Customer 私たちはユーザを本当に理解しているだろうか?
01 AMAZON ファイアフォン 自社が描いた将来像を重視しすぎて失敗 2014年ころ
・製品 世界を丸ごとショールーム化する画期的スマートフォン
狙いは、買い物体験の向上。スマホのカメラでDVDや書籍の表紙を撮影することですぐにAMAZONのwebページに飛んでレビューを読んだり購入したりできるようにある。カメラだけでなく、音楽などをスマホに聞かせることでコンテンツを特定しすぐに購入することが可能となる。言い換えると、実空間にあるものすべてをスキャンの対象にするツールともいえる。当時ジェフベゾスは、1億を超えるアイテムを、いつでもどこでも1秒で認識できると言っていた。当時、アメリカの小売売上高に占めるネット通販の比率は、6%程度だった。つまり、ネット通販のポテンシャルは巨大であった。

・失敗に至った経緯 ほとんど話題にならず、わずか1年強で撤退
当時、iPhoneやギャラクシーといった強力な先行者がいた。スマホ市場は激しい市場のひとつ。フェイスブックやグーグルも参入しては撤退したというほど。端末の値段を199ドルから、99セントに引き下げて、かつAMAZONプライム1年分(99ドル)をつけても反応はいまひとつだった。電池の過熱や持続時間に対するハード面の不満も少なくなかった。同じころ、iPhone6が発売になり、市場におけるファイアフォンは急速に下火になっていった。ファイアフォン関連の損失1億7000万ドル、在庫8300万ドル。これは発売後3か月後の話。販売期間1年で、ひっそりとした終幕を迎えた。

・原因 自社視点で描いた将来像を重視しすぎてバランスを欠く
端的に言うと、ユーザーがスマートフォンに求めるものとのズレがあったということ。スマホにおける買い物の位置づけは、そのほか多くの機能の内の一部分でしかない。スマホで買い物が少し便利になったからと言って、簡単に買い替えるか?
AMAZON側の立場からすると、AMAZONのサービスとユーザをつなぐスマホという大きなミッシングピースを埋めたいという課題認識も理解できるし、「世の中ショールーム計画」はいまでも斬新に感じる。しかし、当時のユーザにとって、例えば電池の持ち時間や通信料などもっと身近に解決されていない課題があった。 ⇒課題を階層構造で捉えるべき。TQCのように、ある課題をクリアしたら別の課題が浮き彫りになるように、きちんとステップを踏んで課題解決をする必要があるということか。
別の言い方をすれば、ユーザー視点で見た現在を疎かにしたまま、自社視点で描いた未来に重心をかけすぎていたといえる。ユーザを導くためには、「ユーザーの目の前に立ちふさがる課題からの解放」がセットで準備されるべき。

・メッセージ
AMAZONはこの後、アマゾンエコーという製品を出した。その姿勢には、言語化しにくいバランスのとり方を怪我をしながらも学んでいると見えなくもない。後日談はいくらでも語れる。しかし、日々大きな変化が矢継ぎ早に起こる今、この微妙なバランスのとり方は、傷を負いながらも前進しようとする企業の中にこそ、そのヒントが見出せるのかもしれない。
次の二つの対立するバランスの取り方は、果敢にチャレンジしたものだけが体得できる特典だ。
ユーザ視点と自社視点という立場のバランス
現在視点と未来視点という時点のバランス

 

02 フォード エドセル 社内的な正しさを追求して失敗
・製品 発売までに史上最多の資本投入をされた消費財 1957年ころ
画期的な押しボタン式の計器、新奇なデザイン。それは、大衆車を作っていたフォードにとって核となる中級車がなかったことで、GMなど他社に顧客が乗り換えていったという背景がある。いかにして他社をしのぐ圧倒的で革新的なモデルを生み出すかがフォード社の全社的な使命だった。
5000万ドルという多額の費用を投下し、ティーザー広告という情報を小出しにしながら消費者の興味をあおる方法で、消費者の関心を発売まで引っ張り続けた。

・失敗に至った経緯 2年あまりで3億5000まんドルもの資金を溶かした大参事
1日600台が黒字ラインだったが、300台ほどしか売れなかった。初期段階では、納車時にオイルが漏れていたり、ボンネットやトランクが開かなかったり、押しボタンが機能しなかったりする製品そのものに欠陥や不具合が多かった。手を打ったものの、消費者に大きな影響を持つ雑誌が、エドセルを酷評したことで、さらに低迷した。その後何度かモデルチェンジをしたが、採算ラインを大幅に割り込んだ状況は変わらず、1959年に、生産中止となった。

・原因 社内的に正しいプロセスを踏んだからこそ失敗した
着目すべきは、製品そのものの品質に関わる問題。自動車には、「安心して快適に移動できること」という具体的な中核的価値がある。だが、エドセルはその中核的価値に不安を感じさせた。製品というのは、その大前提を満たすからこそ初めて次フェーズであるデザインや機能で戦うことができる。中核的価値を満たしていない製品は、そもそも土俵に立てない。中核的価値とは、いわゆるアタリマエ価値のこと。
押しボタンなど新しいことを取りそろえた結果、確率的に欠陥が出やすいプロダクトになったしまった。デザインや広告手法など、先のフェーズばかりに目を奪われてしまっていたことで、結果的にものづくりの優先順が下がってしまったことが課題といえる。
エドセルの開発は、最新の顧客情報をベースにしながら、社内的に正しいプロセスに則って決められた、ということ。正しいことをやった、それなのに失敗に至った。ここから得られる教訓は何か?真のマーケティングは真の顧客情報や正しい意思決定プロセスを踏むことではないという真実。結局、消費者のことなどわからない。その前提に立つ。いくらデータが正しいとしても、ひょっとしたら違うかもしれない、世の中変わってきているかもしれないという健全な問いを挟むことが求められる。 市場起点でPDCAが廻っていないことの例なのかもしれない。

・メッセージ
マーケティングというのは、移ろいやすく把握しにくい顧客心理に対して、絶えず興味関心を持ち続ける姿勢にある。プロセスや情報ではない。
この後、フォードはマーケティングの形を大きく変更させ、マスタングを開発する。開発責任者は、エドセルの失敗を受けて、我々は方針を180度転換したと言っている。フォードの躍進は、エドセルの失敗から大事なレッスンを積んだことにあった。
製品における中核的価値を満たすことが何よりも重要。これがないと土俵にさえ立てない。
マーケティングの本質は、絶えず変わり続ける顧客に関心を持ち続けること。
失敗からの学習をどのくらい早く行うかが企業のその後の成長を形作る。

 

03 コカ・コーラ ニューコーク 適切なコミュニケーションができず失敗
・製品 ペプシ打倒のための歴史的チャレンジ 1985年ころ
業界のガリバーとして圧倒的なポジションのコカ・コーラだったが、ペプシコカ・コーラになじみの薄い新世代への訴求と、味で勝負するという戦略で、コカ・コーラはトップシェアを譲ることになった。そこで、1世紀以上もそのままだった、コカ・コーラの味を変えるという手段を選んだ。ここには、輸入していた原料である砂糖の高止まりがあり、それを安定した価格で手に入る異性化糖を選択。これは年間1億ドルのコスト減にもつながる。市場調査でも、高い評価を得ることに成功。総合的に判断して、既存製品より1段甘みの強いこれを、新しいコカ・コーラとして認定。カニバリを考慮して、既存製品は打ち切り。これをニュー・コークとして発売した。

・失敗に至った経緯 消費者からクレーム3か月で旧製品復活へ
批判が殺到。毎日1000件を超えるクレーム。昔の味に戻すことを「絶対にありえない」「考えもしない」という頑なな姿勢もさらに批判活動に火をつけることになった。旧製品がなくなる1か月後、クレームは1日8000件を超える。かつてのファンも離れていくし、若い世代を振り向かせることもできなかった。ボトラーからも旧製品を復活させるべしという、止む無き批判を受け止め、発売から3か月後にコカ・コーラクラシックとして復活させた。92年にはコークⅡという名称変更がされ、2002年にひっそりと姿を消した。

・原因 味ではなく、コカ・コーラの姿勢に対して反発した消費者
20世紀のマーケティング史における最大の失敗事例といわれている。コカ・コーラにはいち消費財以上の価値を顧客が感じており、その味を簡単に変えたからだと。しかし、実際には軽んじていたわけではなく、リサーチにリサーチを重ね、合理的なプロセスを踏みながら慎重に事を進めていた。なので、この失敗した結果を踏まえ、一つ言えるとすれば、伝える際の経営陣の「態度」や「見え方」にある。実は、ニューコークを発表する際、味を変える理由について、ダイエットコークを調合する過程で科学者によって発見された「偶然の産物」というストーリーを自信満々に話した。ペプシチャレンジの結果を受けて味の変更を検討してきたとは言えなかった。この発見には自信がある。間違えるはずがないと何度も強調。顧客には、コカ・コーラ者の開発の経緯は知るはずもないので、唐突に、思い付きのように「新しい味を発見したから変える」という宣告をされたように感じ、反発心が芽生えてしまった。実際に、クレームを受けた窓口の報告によれば、驚くほど多くの人たちがニューコークを飲んでいないにもかかわらず味に対する抗議の声を寄せていたそう。消費者は、映画会社も買収し、顧客不在でアメリカを知らないキューバ出身の外国人経営者が思いつきのままにアメリカの文化を変えてしまうと考え、コカ・コーラ社の姿勢に反発した。だからこそ、3か月という期間でのクラシックコークの復活と経営陣による真摯な謝罪は、コカ・コーラを大きく飛躍させるきっかけになった。営業利益率が10%そこそこから、20%を超えるまでになった。

・メッセージ
社内で入念に検討を重ねた結果であっても、顧客はそれを知らないため、「唐突に」「軽々しく」決めたと受け取る可能性がある。どのようなストーリーで顧客に伝えるのかは超重要。消費者の意思決定は、機能勝負からデザイン勝負へ、そして最後はストーリーで勝負が決まるというのがある。忘れてはいけないのが、ニューコークに対する素早いリカバリ。わずか3か月後に社運をかけたプロジェクトを謝罪とともに変更したことは一度ストーリーで負けたコカ・コーラに、真摯に顧客に向き合う会社であるという新たなストーリーを付与した。一度失敗してもそこから謙虚に学ぶ姿勢は、新しいポジティブなストーリーを生み出す可能性につながる。
機能や品質さえよければ売れるわけではない。どのような「ストーリー」を添えるかが重要。一度失敗しても、そこから謙虚に学ぶことができれば、新しいストーリーを生み出すことができる

 

04 Facebook フェイスブックホーム 無理なチャレンジを仕掛けて失敗
・製品 アンドロイド端末をフェイスブック仕様に変えるための乗っ取り戦略 2013年
フェイスブックがホームアプリとして搭載されているスマホ。常にフェイスブックにアクセスしている状態。知り合いが写真投稿すれば、ホーム画面に表示され、ダブルタップすればイイネができるようなもの。いわば、フェイスブックフォン。googleに対する焦りと妥協の産物でもあった。OSやアプリのプラットフォームなどの土台をgoogleが握っていることで、さじ加減ひとつでフェイスブックの命運が変わってしまう。2011年には、googlegoogle+というSNSを立ち上げた。プロジェクトOxygenという、対google戦略組織を組成して、ハードやOSを含めた新しい統合型のスマホを作ろうとしたが、OS開発の難易度などがあり、結局HTCと協働することで、アンドロイド端末に、ホームアプリという概念を構築してフェイスブックホームを作った。

・失敗に至った経緯 酷評の中、わずか数か月で世の中から消え去る
2年縛りで約100ドル。しかし、アプリ評価は5段階中2。満足するのはフェイスブック中毒者だけ、バッテリーの消費が大きいなど。1か月後には99セントまで値下げ。それでも販売台数は1万5000台程度。3か月足らずのうちに販売中止となる。(2013年にもっとも売れたスマホは、4700万台とのこと)。2013年のテクノロジー業界における10の失敗のひとつに選出されるほど。

・原因 失敗は織り込み済みの意図のある失敗だった?
土台となるプラットフォームを握られてしまった段階におけるアプリ戦略の難しさがある。本来はOSを自分たちの手で作りたかったフェイスブックだが、技術的な理由であきらめざるを得なかった。「OSを握られた中で主導権を取り戻せるのか」というある種の無理を承知の上での実験だった。フェイスブックは翌年2014年に、VR企業であるオキュラスを買収。モバイルのプラットフォーム業界において、出足の差がすべてを決めてしまったという認識がザッカーバーグにはあったと考えられる。

・メッセージ
意図のある失敗とは、失敗するリスクを踏まえながらも、長期的な視点で戦略を実現するために必要な投資のようなもの。意図のある失敗において重要なことは、もし失敗したらその次のアクションをどうするか、という見通し。フェイスブックは、それがVR企業の買収だった。このフェイスブックの一連の事例は、目先のことにとらわれすぎず、長期的な視点に立ち、今どんな失敗覚悟のチャレンジをしておくことが重要なのかを考えるきっかけを与えてくれる。
プラットフォーマーにゲームのルールを握られると傘下のプレーヤーの打ち手は限定的になる。なので、厳しい戦いの状況下でも、いまだからこそできるチャレンジを仕掛けていくことは重要。失敗したときに、その次の打ち手をどうするかを織り込んでチャレンジをすべし。

この事例から示唆を得るのはとても難しい。。。

 

05 グーグル グーグルプラス 企業側の戦略を優先して失敗
・製品 グーグルのビジネスモデル上、必要不可欠だったSNS  2011年
オーカット、グーグルウェブ、グーグルバズなどSNSに挑戦しては撤退してきたが、「リアルな人間」のデータ取得は諦めることができなかった。グーグルは、ユーザと広告との的確なマッチングをすればするほど収益を得ることができる。過去、フェイスブックに買収を仕掛けるなど、属性が明確でリアルタイムに情報を取得できるSNSはビジネスモデルにおける大きなミッシングピースだった。グーグルプラスは、実名登録が前提で、匿名ユーザはアカウントの停止削除するなど強硬手段を取っていた。多くの批判があったが、実名登録はマッチング精度を高めるために譲れない一線だった。
当時、フェイスブックは7億人のユーザがいて、勝ち筋のひとつとして差別化要因があった。サークルという概念で、家族、友人、会社などのサークルを作成し、そのサークル内での自分を定義し、それぞれに情報を出し分けられるようにした。(フェイスブックはそのような概念はなく、すべて等しく投稿情報が共有される)。あとの差別化要因として、グーグルの既存サービスがあった。メールやカレンダーなど。通常、グーグルではプロダクトと呼ばれるが、グーグルプラスは複数のプロダクトと関りを持つ大きな意味を持つものとしてプロジェクト扱いとされる。既存のグーグルのサービスを横断でつなげるという使命を持った、グーグルにとって極めて野心的なサービスだった。

・失敗に至った経緯 サービスの統合が反発を招き、個人情報管理問題がとどめに
内部からも不満が出る。自由な開発体制こそが売りだったグーグルがトップダウンでソーシャル化への機能連携に舵を切ったという経営方針に対する不満と、それにもかかわらずフェイスブックには程遠いユーザー数にとどまっていることに対して、内部で不満が高まっていた。2013年に引き続き、連携を強め、youtubeとの統合も図る。しかし、各種連携強化の施策増加に反比例するように、グーグルプラスのユーザの投稿量は減り始める。これらを踏まえ、2014年には実名ポリシーを放棄し、正式に謝罪をした。2015年には、youtubegoogle+とのアカウント統合も解除した。この時点で、グーグルはグーグルプラスの不振の影響を限定的にとどめておくという判断をし、グーグルプラスをグーグル既存サービスと切り離す決定をしたということ。
2018年には追い打ちをかけるように、個人情報の管理体制の問題が発覚した。3年以上もの間、外部の開発会社がサービス内の個人情報にアクセスできる状態になっていた。公にその事実を認め、グーグルプラスの閉鎖の方針を決めた。2019年4月に、グーグルプラスは閉鎖された。

・原因 意図と野望があるグーグルだからこそ失敗した
成功しているSNSである、フェイスブックツイッター、インスタグラム。これらは、開始時点ではスタートアップによるサービスであり、最初は限定的なユーザーが楽しみながら活用し、ユーザーが使い方を見出しながら徐々に大きくなってきたという歴史がある。SNSはユーザがコンテンツを投稿することによって、事後的に方向性が定まることを考えれば、企業の意図ではなくユーザが楽しめる場を手探りで作っていく過程が重要だということができる。生活に定着するまでの期間は、企業側の都合を感じさせてはいけない、ということ。そう考えると、実名登録やアカウントの統一など、グーグルという企業の存在やその都合が見えすぎてしまったということが挙げらえれる。すでにフェイスブックがあるのに、わざわざ乗り換えてまでグーグルに貢献する必要もない・・・と考えていたユーザが多数だったとしても不思議ではない。別の言い方をすると、大企業だったグーグルだから失敗したと言えなくもない。SNSが必要だったという必然性があり、明確な意図があった。その意図が強かったからこそ、失敗したという皮肉なストーリー。

・メッセージ
提供側の意図が強いからこそ、「こうでなくてはならない」「ユーザーはこうであるべきだ」という思いが先行し、その強い思いがサービス内容を規定してしまう。結果的に、その無言の圧力が息苦しさを生み、ユーザの離反を招いてしまう・・・という事態を招いてしまう。私たちは、そういう意図の強いビジネスであればあるほど、企業側の戦略を一旦仮置きするという知恵が必要なのだろう。
打とうとしている施策は、本当にユーザのニーズに即したものなのかを考える。
ユーザのニーズを探る際は、企業側の都合をいったん脇において素直に見ることを心がけよう。
SNSは、ユーザにとっての使い勝手こそがすべて。時間をかけてユーザーを育むだけの忍耐力が必要だ。

 

06 ファーストリテイリング スキップ プロダクトのレンズを外せず失敗
・製品 ユニクロの強みを横展開し、食品業界の革新を狙う 2002年
野菜事業。野菜を中心とした農産物は、生産から流通、販売までの工程に無駄が多いために価格が高止まりしている。その業界に、SCMを導入すればアパレル業界のように高い品質のものを安く提供できるはずだと考えた。2002年、ファーストリテイリングは業績が停滞しており、成長ためには様々な可能性を探っていかなければならないという危機感を持っていた。その中で、アパレルと野菜事業の間に相関を見出した。永田農法とよばれる、植物が生きようとする力を最大限に活かすやり方で、コストは割高になるものの、高い糖度や栄養価など野菜の品質は格段に高まることがわかっていた。品質を担保しつつコストを削減するために、農家に対する引き取り保証や中間マージンの削減、販路拡大を通じて、規模の経済を実現するといった戦略を立案する。規模の拡大と無駄の削減を通じて、良いものを安くを実現しようとした。

・失敗に至った経緯 安定供給のハードル高く、日用的なニーズを満たせず
当初は1万3500人と好調だったが、独身世帯などに偏りがあった。その後も伸び悩み、主婦層の拡大等を目的に実店舗の出店攻勢を試みたり、当初の首都圏だけから本州四国まで拡大したりした。しかし、その顧客拡大施策の裏で、本質的な問題(中核的価値)に直面していた。欠品問題である。農家の拡大が難航、出品のコントロールができない状態で、相当な頻度で欠品していたため、普段使いにはとても耐えられるものではなかった。クオリティが高い野菜さえ手に入れば顧客はついてくると考えていたが、おいしい野菜の提供に力をいれていたんだけど。結局、4,5万を目指した会員数は1万前後を均衡。2004年に撤退。26億円の特別損失を計上した。柳井会長は、「衣料品と異なり、工業製品のような計画生産ができなかった。」

・原因 プロダクトのレンズをはずすことができなかった
自社都合の曇った世界で世の中を見てしまったこと。具体的には、ユニクロの成功が野菜でも横展開できるはず!という見立てや、反対した人たちに対してこのビジネスモデルの正しさを証明してやる!といった反発心。柚木社長は、スキップの失敗の要因を「顧客起点の考え方に欠けていた」と話した。ユニクロの成功やスキップの構想は置いといて、利用者の立場に立って、生活をイメージしてみること。利用者にとっては、野菜を買うということは数多くあるルーティーンのうちのひとつでしかない。顧客起点は言葉としては理解できていたとしても、その視点に立って注意深く考えてみるということとは大きな差がある。プレッシャーを強く感じれば感じるほど、プロダクトのレンズから世界を見がちになる。その呪縛から逃れるのは難しい。

・メッセージ
GUの社長をやっているのが柚木さん。2006年にスタートしたGUは、破綻寸前だったが、柳井さんが柚木さんを選び、大成功に至った。柚木さんは、「絶えずご近所さんや若いスタッフの声に耳を傾けることから始めている」といっている。短期的には失敗に見えることも、その学びを活かせば長期的には、次の機会につながっていく。柚木さんのこの事例は、そんな前向きな勇気を与えてくれる。

 

まとめ ユーザ視点を学ぶ
課題を階層構造で捉えるべき。TQCのように、ある課題をクリアしたら別の課題が浮き彫りになるように、きちんとステップを踏んで課題解決をする必要があるということか。ある課題は、時が解決する場合もある。
現在と未来、ユーザーと自社という対立におけるバランス感覚。
中核的価値がなければ、土俵に立つことさえできない。マーケティングというのは、絶えず興味関心を持ち続ける姿勢。
消費者の意思決定は、機能勝負からデザイン勝負へ、そして最後はストーリーで勝負が決まるというのがある。一度失敗をしても、それがストーリーになりうる。
プラットフォーマーにゲームのルールを握られると傘下のプレーヤーの打ち手は限定的になる。なので、厳しい戦いの状況下でも、いまだからこそできるチャレンジを仕掛けていくことは重要。失敗したときに、その次の打ち手をどうするかを織り込んでチャレンジをすべし。
供側の意図が強いからこそ、「こうでなくてはならない」「ユーザーはこうであるべきだ」という思いが先行し、その強い思いがサービス内容を規定してしまう。ユーザのニーズを探る際は、企業側の都合をいったん脇において素直に見ることを心がけよう。
顧客を見るときは、自分自身がプロダクトのレンズをかけて見ていることを認識すべき。顧客起点で考えるということは、いったん自分のビジネスを忘れて素直に行動を見つめてみる。失敗から学ぶことが重要。

 

■競争ルールを学ぶ Competiter 私たちは競争に勝つために必要な条件を理解しているだろうか?
07 マイクロソフト Windowsフォン 初期段階の出遅れを挽回できず失敗 
・製品 MSのスマホ 2010年
iPhoneやアンドロイドが出てくる2007年ころまで、MSはスマホの先駆者だったが、どんどんシェアを失い続けた。2010年に、いままでのスマホとの互換性を捨てて、ゼロベースでウィンドウズフォンという新たなOSを開発した。端末はノキアノキアシンビアンというOSを自社開発していたが、イノベーションに乗り遅れ時代遅れになっていた。なので、ノキアにとってもウィンドウズフォンのOSを採用するというのは社運を賭けた大きな一手だった。IDCは、ウィンドウズフォンは2015年にはシェア21%になると予想していた。さらに、直感的に分かりやすいUI、エクセルなどのオフィスがスマホ上で使用できるなど、ユーザの関心は高まった。

・失敗に至った経緯 PCでの優位性をモバイルに活かせなかった
2013年にノキアを72億ドルで買収するとしたが、この大型の買収をしたところで、iOSやアンドロイドと開いたその差は、埋めがたいものがあった。2014年には、買収を失敗として認め、1万8000人をリストラした。2015年には、コンティニュアムという機能を取りいれたスマホで仕事ができるということを売りにした。しかし、アプリ開発者はついていかなかった。開発したアプリがスマホでもPCでも活用できれば双方に提供できるのでメリットが大きいはずと考えたが、開発者たちはそう考えなかった。スマホにとっての最適なUIが、PCでもそうあるとは限らない。ユニバーサルアプリの構想は、どっちつかずの中途半端な代物とみなされた。2019年にはサポート終了宣言。

・原因 初期段階でのちょっとの遅れがすべてを決めた
MSは、PCとモバイルは別物で、それぞれで勝負しなくてはいけないとうすうすわかっていたものの、敢えて難易度の高いPCとモバイルの一体化で戦うことを選択した。ちぐはぐ感。これは、MSが置かれてしまったOS競争における立ち位置がある。OSの領域はネットワークの経済性(外部性)(=勝者総取り)が働く業界。後からひっくり返すのは至難の業。初期段階のちょっとの遅れから圧倒的な劣勢に追い込まれてしまった結果、勝ち目の薄い打つ手を選ばざるを得なかった。ユーザはウィンドウズのOSを使いたいのではなく、オフィスのアプリを使うことで問題解決をしたいのだ、というユーザ視点に立ち返り、オフィスのサブスクで大躍進を遂げたMS。

・メッセージ
OSの世界のように、最初に循環構造を作られてしまうと、後手に回ったプレイヤーはかなり条件の厳しい戦いを強いられる。その土俵に残って苦しい戦いを続けるより、いったん土俵から降りて、改めて顧客視点に立ち戻り、新たな戦い方を再定義することの重要さが示唆として得られる。

 

08 任天堂 Wii U 理想を追求しすぎて仲間を作れず失敗
・製品 Wiiの後継機 2012年
特徴は、Wii Uゲームパッド。2006年発売のWiiは、最先端の技術を追わずユーザに着目した製品開発をしていた。2011年ころは、Wiiを投入した時代から大きく変わっており、スマホ上で展開されるソーシャルゲームが台頭してきており、ゲームをするためにわざわざハードウェアを買う必要があるのか?という新たな問いに向き合う必要があった。Wii Uは、Better Togetherというコンセプトで、ファミリー層を維持し続けることを狙った。リビングにおいてもらい、家族で、そして毎日触れてもらう機会をいかに増やすか。稼働率が高い状態を保てれば、そこから先のソフトビジネスの可能性が大きくなると考えた。

・失敗に至った経緯 サードパーティーを巻き込めず、ソフトの少ないゲーム機に
ソフト数の少なさが販売不振の背景。任天堂のハード戦略には一つの方程式があり、それがハードの魅力を十分体験でき、そのハードでしか遊べないキラーコンテンツと呼ばれるソフトを初期段階で出すこと。そうするとハードが売れ、サードパーティも参入してきてまたハードが売れる・・・という循環構造が生まれる。この循環構造をいかに初期段階で作ることができるのかがが任天堂の勝負だった。ニンテンドーランドマリオブラザーズUでは、魅力が十分に拡散するまでには至らなかった。外部のソフトメーカーは、その売れ行きや変則的な追加機能を盛り込む等を考慮すると、コスパが悪すぎた。結果、Wiiの2割程度のラインナップとなった。マリオカート8やスプラトゥーンマリオメーカーといった自社開発ソフトはヒットしたが、結局長期的な販売実績にはつながらなかった。

・原因 ゲームソフト開発のハードルが高くオープンな生態系構築に失敗
サードパーティを巻き込めなかった。サードパーティにとって収益性を高めるには、一度開発したソフトを可能な限り多くのプラットフォームにアレンジして展開することが定石。しかし、Wii Uはハード自体が複雑で多くの追加工数が必要だったこと、そして開発ツールが審査のうえで有償だったこと。つまりは、Wii Uはコストがかかり面倒なプラットフォームだった。任天堂の思想は、ハードとソフトを高い次元ですり合わせて統合するからこそ味わえる究極のゲーム体験の追及だった。初期段階で循環構造を作れなかったため、孤立してしまった。PS4XBOXは対照的にオープンな生体系を作っていた。その後のswitchでは、サードパーティが開発したくなるような環境づくりに尽力したといっている。Wii Uの失敗は、プラットフォーマーとしてのバランスの取り方を考える機会として決して無駄ではなかった。

・メッセージ
先行きに不透明感があるのであれば、より多様な関係者が参加したくなる、もしくは応援したくなる枠組みを作ることは成功確率を高めるひとつのカギになる。ダイバーシティは競争力の源泉になる。不確実性と多様性のバランス。高い次元でユーザ価値を追求していくと、第三者が協力しにくい閉じたモデルになりやすい。どこまでオープンにするかは外部環境の変化を踏まえて柔軟に判断すべき。先行きは不透明なこの時代、オープン化を進め多様性を確保することが一つのカギとなる。

 

09 NTTドコモ NOTTV 成功体験にとらわれて失敗
・製品 アナログ放送の帯域を利用した新たな放送局 2012年
当初は、少ない対応機種であまり伸びなかったが、のちに対応機種も増え、NOTTVの契約を伸ばしていきたいと考えていた。

・失敗に至った経緯 iPhoneショックと動画サービス時代が直撃
屋内まで放送波が届かず、家の中でまともに視聴ができないという技術的な課題があり、急遽室内用アンテナを無料で配布する緊急措置を取ったりしていた。対応機種も増えてきて、さらにソニーサムスンのツートップ戦略で契約者も伸びていった。しかし、同年、ドコモはiPhoneの販売を開始することになった。ソフトバンクauに対抗するために仕方のないことだった。しかし、iPhoneはグローバル機種のため、日本独自サービスのNOTTVには非対応。みんなiPhoneに流れたため、NOTTVの契約も一気に落ちることになる。さらに、同じころyoutubeなどの動画コンテンツが質、量ともに一気に充実してきた。ネットフリックスが動画サブスクリプションを提供したり。NOTTV開始当時は安定して大容量のコンテンツを見るのは難しいと考えられていたが、このころ無線LANLTEで高速化が進み、ネット環境で十分楽しめるようになってきた。みんな、NOTTVに意味を見出せなくなってきた。

・原因 ビジネスモデルの過渡期なのに旧来型の成功方程式を盲信した
ドコモの戦略は、ひとつの前提に依存していた。それは、「NOTTVの対応端末さえ売れればなんとかなる」というもの。しかし、これは二つの意味で間違いだった。ひとつはそもそも対応端末が売れない事態を想定していなかったこと。もうひとつは対応端末が売れてもサービスを選ばれない可能性を考慮していなかったこと。過去、ドコモはiモード垂直統合型ビジネスモデルで成功した。しかし、2010年前後を境に、時代はスマホとなり、ビジネスモデルは大きく変容した。端末メーカーはキャリアからのコントロールを外れ、グローバルレベルで主導権を握り始める。アプリはアプリでキャリアとは関係ない独自の進化の道を進む。なので、NOTTVは本来、ドコモというキャリアに関係なく純粋なコンテンツアプリとして同じレイヤーに存在するほかのアプリとの時間の奪い合い競争に勝たなくてはいけなかった。キャリアによる垂直統合の力ではどうにもならなかった。失敗の大元は、通信サービスが発展していく時代環境下に、甘い見通しで放送事業に参入した意思決定そのものに誤りがあったといえる。過去の垂直統合型の成功方程式を盲信してしまった象徴的なケースといえる
なお、開局以来、毎年215億、168億、500億、という損失を計上し、累積赤字は1000億円に達した。

・メッセージ
全ての病気に対して万能な薬がないように、一度大きな成功をした企業、組織、個人は勝つための方程式は、通用するビジネスの範囲がある。ビジネスが異なれば、その方程式はもう一度ゼロベースで考え直さないといけない。無意識のうちにほかの領域にも当てはまると甘い見積もりをしてしまう。
ビジネスには、垂直統合型のビジネスとレイヤー構造のビジネスが存在する。それぞれのビジネスには全く異なる戦略と仕組みが必要になる。ビジネスの構造が変化すれば、その方程式は通用しない。

 

10 ナイキ ゴルフ用具事業 強みを活かせない隣接市場に参入して失敗
・製品 ゴルフ用具事業への参入 ゴルフボールを皮切りに、ゴルフクラブ、キャディバッグなど 1999年
1984年に、ゴルフのアパレルに参入し、1996年にタイガーウッズと契約をしてから、ウッズの活躍に伴う露出効果で、ゴルフ界でアパレルやシューズの確固たるプレゼンスを確立した。ブランドイメージをベースに、ゴルフボール事業参入と事業の拡張をした。ナイキにとっては、市場を寡占的にしていたビッグプレイヤーと、さらに新規参入組とも同時に戦わなくてはいけないシビアな市場であった。ナイキはゴルフボールの開発・製造能力はなかったので、OEMという形で参入。ウッズの存在が、勝利のカギだった。実際、OEM先のブリヂストンの力を借りて、今までとタイプの異なる低スピンと高いボールスピードを実現した。ウッズはナイキ製にゴルフボールを変更して、素晴らしい結果を残した。2001年にはゴルフクラブやキャディバッグの販売を開始。ウッズの注目が集まるほど、ナイキのブランド価値を高めていった。

・失敗に至った経緯 市場の伸び悩みとメインプレイヤーの不振によって成長が止まる
2008年のリーマンショックによる景気後退。ウッズの膝の手術のための1年間の欠場、そして不倫騒動。売上は昨年比11%の減少。ゴルフ全体の市場停滞も加わり、数年にわたり前年比で減少が続いた。各スポーツメーカーも撤退し、ゴルフ用具市場の厳しさを伝えることになった。ウッズとともに成長したナイキの終わりを導いたのは、ほかならぬウッズだった。

・原因 隣接しているものの、全く異なる事業に参入したことが敗因 (シナジーを活かせない多角化
ナイキはゴルフ用具事業に対して強みを活かすことができなかった。用具とアパレルに相関があまりない。用具にを製造する際に求められる金属素材の知見や加工・生産技術を保有していなかった。なので、OEMという生産委託だったので、利益率は低くなり、技術的な強みも積み上がっていかない。それでも参入した背景は、ウッズというアイコンとゴルフ市場の将来的な成長の期待があったから。しかし、ウッズは怪我やスキャンダルで悩まされ、ゴルフ市場は緩やかに衰退していった。参入前提が崩れてしまった業界に、撤退以外の選択肢は残されていなかった。
後日談。2019年43歳のウッズはマスターズで優勝した。ナイキはウッズが苦しい時もスポンサーを降りず支援しながらともに歩み続けてきた。ウッズの優勝は改めてナイキのブランドを強く印象付ける形になった。

・メッセージ
隣接領域への多角化の難しさ。短期的にはインパクトを与え成功したとしても、考えるべき問いはそれが持続的か?ということ。企業としての強みがない、DNAに根付かない施策はどうしても属人的な力と甘い市場見積もりに依存しがちになる。隣の芝の青さに魅力を感じたとしても、それを前提にするのではなく、厳しい市場という前提で、自分たちの強みをそこでどうやって一から築いていくのか、という冷静な見立てが問うべきこと。今後、テクノロジーが業界の垣根をなくしていくことが予想される中、多くの企業にとって隣接領域への参入は現実的な問いになるので、このナイキの示唆は重要になる。
隣接領域への参入を考える際は、持続的に勝つシナリオを考えるべき。属人的な依存は短期的なインパクトを出せても、長期的にはリスク要因。

 

11 東芝 HD DVD 最初のシナリオを修正できず失敗
・製品 デファクトスタンダードを狙った、ブルーレイと戦った次世代DVD規格 2006年
ブルーレイの話が欠かせない。ブルーレイは、ソニーPanasonic、フィリップスなどの国内外の家電メーカー9社はDVDの後継となる構想として誕生した。しかし、東芝は前日夜中までというぎりぎりまで参加の説得を検討をしていたが、辞退した。東芝は、DVDの提案企業で、DVDフォーラムでも一貫して議長会社を務めていた。他規格の団体には加われないという姿勢を示した。東芝は、次世代規格で基本特許を押さえ、機器販売で特許料収入を得る構想でいたのが、断った背景。ソニーは2003年に、本来2層のものを急いでいたので、1層で45万という高価格で発売。重要なコンテンツであった、映画会社の配給は、ブルーレイ77%、HD DVD45%というように、もともと均衡状態だったものが大きくブルーレイ優位になっていった。そんな中、東芝は、2006年にHD DVD規格のプレイヤーを発売。多少ソフトウェアで不利だろうと、ハードの価格競争で勝つことができればやがて、ソフトウェアもひっくり返る可能性があると考えていた。

・失敗に至った経緯 ソフト・ハードの両面で後れを取り均衡が崩れ、雪崩を打つように失速
ブルーレイ陣営は、PS3にブルーレイ再生機能を付けて5万円台で発売、Panasonicやシャープも次々と新商品を投入して、賑わってきた。東芝も、5万円台のプレイヤーを発売したり、アメリカでは100ドルキャッシュバックなど価格競争を仕掛ける。のち、ソフトウェアにおいて、ディズニーなどの人気作品がブルーレイに供給されることになって、一気に話題を集める。さらにレンタルチェーンや小売の支持を得て、流通上の優位性も築く。ブルーレイのソフトウェアのタイトルは、HDDVDの2倍ほどもある状態だった。技術的に難しいと言われていたブルーレイの2層化も比較的安いコストで対応可能となり、高性能ハードウェアが売り場を盛り上げる。東芝は、99ドルという低価格でプレイヤーを販売するが、ソフトウェア価格が相対的に高く見え、さらに中国メーカーの市場参入を踏みとどませるものとなった。利益が出ないからね。年末商戦では、ブルーレイ96.2%、HDDVD3.8%という燦燦たる結果。そして、ワーナーショックという、ふたつの陣営で供給していたワーナーがブルーレイ単独支持に鞍替えすることを発表。翌2月に、撤退を発表。

・原因 脆弱なシナリオに依存し、代替シナリオもなかった
東芝が描いた戦略は、「価格勝負」という極めてシンプルな戦い方。スピーディーに低価格商品を出すことで、ハードウェア市場を席巻し、ソフトウェアも取り込むことができるというもの。しかし、実際には低価格商品だけでは市場を席巻できなかった(想像以上にブルーレイの技術革新のスピードが速く、機能的に劣後)し、ハードウェアが売れてもソフトウェアの販売にはつながらなかった(ハードウェアが安すぎてソフトウェアが相対的に割高に見えてしまう)というふたつの前提のズレが発生した。それに対して、代替戦略がなかったことが致命的な欠陥。ギャンブルでひとつの勝負にすべての持ち金をかけて敗れたということ。なぜ、このようなリスクを引き受けたのか。それは、東芝にとって、「勝たなくてはならないもの」だったから。ブルーレイとの規格争いは社内外から大きなプレッシャーがかかるもので、DVDの規格を主導してきた東芝にとって、全く異なる技術体系であるブルーレイに負けるわけにはいかなかった。そういう経緯もあり、徐々に東芝の中で、本来は脆弱だったシナリオが、「負けるはずがないシナリオ」に変わっていってしまった可能性がある。競争相手の動きを予想できるわけではないし、市場の動きも読めないので、完璧なシナリオなどありえない。だからこそ、2の矢3の矢まで戦略に含められるか、ということが重要になってくる。

・メッセージ
「怪しい因果の存在」に気づくこと、そしてその前提がズレた場合の準備の重要性を学ぶことができる。例えば、「競合よりも圧倒的な低価格商品を出す」→「ソフトウェアの販売が増える」という因果には、当事者としての願望が多く含まれている。当然、この因果もかのうせいのひとつだが、「それは本当なのか?そうならなかったどうするのか?」という問いの答えを考えておく必要がある。このような事態を避けるために、「悪魔の代理人」という役割の必要性が問われる(たしかネットフリックスの話でも合ったような・・・)。敢えて当事者にとって聞かれたくない問いを投げかける役割のこと。この問いで、別シナリオを考えるきっかけになったりする。ビジネスの当事者になると、気づかないうちに脆弱なシナリオに依存してしまうことがある。怪しい因果や、客観的な立場の人からの指摘をしてもらうなど工夫が必要。

 

12 セガ ドリームキャスト 構想に対する実行力が伴わず失敗
・製品 ネット通信を有した次世代ゲーム機 1998年
セガは、1998年に433億円という特別損失を計上してセガサターンを撤退した。前社長が退任するという危機的な状況で発売されるドリームキャストは、新社長にとってもセガにとっても失敗することのできないチャレンジだった。当時の競合だったプレステや64とのスペックを桁違いに上回るハードウェアを実現することや、ネットワークゲームを可能にするなど差別化した。ソフトメーカーも320社と多くの会社がドリームキャストで開発することに賛同した。

・失敗に至った経緯 半導体供給に失敗し、最大の販売機会を逃して失速
湯川専務のCMとかで、発売直前には徹夜組の行列ができるほどの人気だった。しかし、販売台数100万台を目指した年末商戦では、半分の50万台しか売れなかった。なぜか。それは商品の在庫切れ。ゲーム機の心臓部ともいえる半導体チップの開発が大幅に遅れ、製造が間に合わなかった。試作品が開発現場でうまく機能せず、発売には改良が間に合ったものの、量産が思うようにいかず、年末商戦までに間に合わなかった。この半導体の遅れは、ハードだけでなくソフト開発にも影響する。半導体の細部の仕様によって、ソフト開発の方法が決まっていくため。ドリームキャストで発売予定だった大物ソフトが続々と発売延期となっていく。ゲーム機がない、ソフトもないという状況で、年末商戦は失敗。さらに、半導体の改良により、構図が複雑になりコストが下がりにくくなり、高コスト体質なドリームキャストとなった。1999年の最終損益は328億円の赤字。2年連続で巨額損失を計上することとなり、1000人のリストラや小規模ゲームセンターの閉鎖など大掛かりなリストラ策を発表した。
この追い詰められた状況で、3つの打ち手を打つ。ひとつは1万円の値下げ。ひとつは北米での販売。ひとつは高速ネットワーク環境の整備。しかし、国内の販売は不振のまま。アメリカではそれなりの反応を得るが、販促費用が収益を圧迫しシェアを奪う前に資金面で行き詰まってしまった。2000年の最終損益は449億円の赤字。3期連続の大赤字。2001年にも最終赤字が確実となった段階でドリームキャストの生産を中止、ゲーム事業からの徹底を明らかにした。単独では生き残りはできないと判断し、2004年にはセガサミーホールディングスとして新たな道を歩むこととなった。

・原因 構想力はあったが実行力に欠けていた
半導体がうまく機能せずに、スケジュールがずれ込み本体もソフトも最大の勝負のタイミングで売り逃がしをしてしまった。それが計算を全て狂わせてしまったと、当時の社長は後日談として語っている。問題は、プロジェクトの柱となるハードウェアの心臓部分の管理が不十分だったことになる。年末商戦がすべてを決めるゲーム業界、そしてPS2の発売前に市場を制するためには1998年11月27日という発売時期は動かせない。となると、そのスケジュールを実現するための最大のポイントの一つは半導体。この半導体に対するマネジメントの甘さは、プロジェクト全体の致命傷につながる(クリティカルパス)。どれだけハイスペックの製品を構想しても、それが実現できなければ価値を生まない。組織の実行力は、ボトルネックをどれだけ直接コントロールできるかにある。社長は、最初に歯車が狂うと、その修正がいかに難しいかを身をもって知ったのがドリームキャスト事業でしたと語っている。これはすべてのビジネスに当てはまる。最初の歯車をスムーズに回せるかどうか。それにはボトルネックを丁寧に見極めて、それを確実に前進させていく企業の実行力が問われている。

・メッセージ
プロジェクト管理でやってはいけないが、すべてのタスクを等しく重要に扱ってしまうこと。どれだけリソースがあっても足りない。重要なタスクもあれば、どうでもいいタスクもある。大事なのは、工程の中で一番重要で他に影響を与える「ボトルネック」を見極め、そのタスクをさらに分解し解像度を高め、最重要部分に対して優先的にリソースを割り当てながら、リーダーがタイムリーに指示をしていくこと。プロジェクトは大小に関係なく、「タスクの分解」「ボトルネックの見極め」「リーダーの関与」ができてない仕事は何らかの破綻を迎える。実行力ということの本質を考えさせられるケーススタディ

 

まとめ 競争ルールを学ぶ
土俵に残って苦しい戦いを続けるより、いったん土俵から降りて、改めて顧客視点に立ち戻り、新たな戦い方を再定義することの重要さが示唆として得られる。
先行きは不透明なこの時代、オープン化を進め多様性を確保することが一つのカギとなる。
ジネスには、垂直統合型のビジネスとレイヤー構造のビジネスが存在する。それぞれのビジネスには全く異なる戦略と仕組みが必要になる。ビジネスの構造が変化すれば、その方程式は通用しない。
隣の芝の青さに魅力を感じたとしても、それを前提にするのではなく、厳しい市場という前提で、自分たちの強みをそこでどうやって一から築いていくのか、という冷静な見立てが問うべきこと。属人的な依存は短期的なインパクトを出せても、長期的にはリスク要因。
ジネスの当事者になると、気づかないうちに脆弱なシナリオに依存してしまうことがある。怪しい因果や、客観的な立場の人からの指摘をしてもらうなど工夫が必要。
組織の実行力は、ボトルネックをどれだけ直接コントロールできるかにある。プロジェクトは大小に関係なく、「タスクの分解」「ボトルネックの見極め」「リーダーの関与」が必要。

 

■社内不全を学ぶ Company 私たちの会社は組織として機能しているだろうか?
13 セブン-イレブン・ジャパン セブンペイ 自社だけが特別思考に陥って失敗
・製品 ペイ戦争に遅れてやってきた決済サービス 2019年7月
コンセプトは、簡単、便利、お得。ナナコポイントやバッジ、マイルがお得にたまるというpayサービス。2019年、全国2万1000店舗で開始された。決済サービスは、2018年12月にペイペイが仕掛けた100億円キャンペーンがきっかけで、色んなペイサービスが乱立。特に、ペイペイとラインペイ(300億円キャンペーン)の戦いは熾烈を極め、半年ほど遅れる形でセブンイレブンがこのペイ戦争に参入した。セブンイレブンジャパンの問題意識はグループで見れば1日あたり2400万人の来店者がいるにもかかわらず、その顧客実態が把握できておらず、グループ間でシナジーが活かせていないという点にあった。過去2015年に、AMAZON等のネット通販の急成長を受け、セブンも「オムニ7」というグループ8社の商品を取り扱い、自宅でもどの店舗でも受け取れるというネット通販を立ち上げたが、利便性の観点で先行者に及ばず、1年足らずのうちにサービスの方向転換を強いられた。なので、2018年にグループ間のID管理を一元化ができる7iDというアプリで、消費者の動向をつかみクーポンなどでタイムリーな情報提供を狙っていく。この一方で、アプリ開発とは別に2018年に決済サービスの構想が始まり、2018年6月にはセブンペイ株式会社を設立した。そんな中、ペイペイの100億円キャンペーンが始まり、導入したファミマは、客数1.0%増という高い伸びだったが、導入していないセブンは1.3%減という落ち込みだった。セブンはナナコがあり、それを通じて購買情報を取得していたため、他社の決済手段に乗るという選択肢はなかった。この爆発的な集客力を目の当たりにしたセブンは、アプリ開発の方針転換を決めた。それは、ゼロベースで決済アプリを開発するのではなく、既存の7iDに決済機能を導入するということだった。

・失敗に至った経緯 2段階認証の導入をせず犯罪集団のターゲットに
サービス開始翌日の夕方から、「身に覚えのない取引があった」という問い合わせ。セキュリティの甘さを突き、国際的な犯罪組織がセブンペイユーザのアカウントの乗っ取りをしていた。被害は808人、総額3861万円。2段階認証がセブンペイになかったから。通常、スマホで決済する場合、事業者が利用者のスマホに認証コードを送り入力することで本人確認をするという2段階認証が一般的。しかし、セブンペイはクーポン利用が主な用途であるアプリに追加された決済サービスであり、セキュリティが十分でなく、2段階認証は導入されていなかった。3日後、緊急の記者会見を開くが、すでに150万人の登録者がおり、サービス停止の決断はしなかった。この会見で、セブンのトップ層の認識と、セキュリティに対する一般常識との大きな違いを露呈することとなった。セキュリティ対策強化のための新組織発足、2段階認証の導入など様々な見直しを発表する。しかし、8月1日に、セブンペイは9月末終了という発表をする。サービス回収には相応の時間がかかることなどを挙げていた。集客とデータ分析における戦略と要となるはずだったサービスは、数日で稼働中止となり、わずか3か月で消滅するという極めて衝撃的な結果に終わった。

・原因 トップの極端なまでの視野の狭さが原因
セキュリティレベルの低いアプリに、決済サービスというハイリスクなサービスを乗せるという決断。これは何かが起きたら、一気に会員全体に広がり取り返しのつかない事態に陥ってしまうというリスキーな選択。だからこそ、開発設計は慎重に進めるべきだった。しかし、セキュリティ対策の検討すらせず、本社が定めたスケジュール優先の対応をしてしまった。チグハグな対応といえる。なぜか。セブンペイの社長は記者会見で、「私共のセブンペイの基本設計は、7iDがあり、そしてセブンイレブンアプリがあり、その一機能としてセブンペイが入っている。基本的に7iD、セブンイレブンアプリが連携した形で登録する形となっているため、「2段階うんぬん」と同じ土俵で比べられるのかというと、私自身はそのへんは認識しておりません」と言っていた。この発言は、トップとしては致命的な視野狭窄状態を表している。セキュリティに対する基礎的認識が欠けているし、関心も感じられない。「わが社は他社とは違う」「わが社のロジックでOKだから問題ない」という、極めて狭い視野でしかこの事業を考えられていなかった。意思決定に関与する立場の人がその意味を理解できておらず、近視眼的な考えに捉われて物事を進めてしまう。トップが持つべき視野のあり方を再考させてくれる。

・メッセージ
トップの視野が狭いと、自社だけが特別だという思考に陥る。視野を狭くすればどの会社も異なるが、一方で視野を広くしてみれば、どの会社も似たり寄ったり。その視野を往復を重ねて、「厳密にいえばこの点が他社とは異なる」ということであればいい。自社だけが特別という思考の問題点は、組織全体が内向きになり、学習意欲がなくなっていくこと。これは、市場起点でPDCAが廻らず同じ失敗を繰り返す可能性が高い。 セブンはこのとき、自社だけが特別思考という姿勢が組織全体にまで広がり切っていたとも考えることができる。

 

14 ソニー AIBO 経営陣の事業尺度に合わず失敗
・製品 革新的なエンターテイメント型ロボット 1999年
次世代のコンピュータに人は、「癒し」を求めるという可能性を見出し、その仮説として、エンターテイメント型ロボットというコンセプトをまとめ、1994年にペット型ロボットの開発プロジェクトを立ち上げた。ただ、何の役にも立たないロボットは、世界的にはも先例がないので、社内からの懐疑的な声は大きかった。この製品の難点は、アプリケーション設計やハードウェアのデザイン。同意に高いデザイン性も実現する必要があり、あと1ミリ内側に入ると内部の機構に干渉するというギリギリな外形になるほど難易度が高かった。販売は、25万円で5000台という計画。ただし、条件として1000体しか売れなかったらプロジェクトは解散、3000体であれば売れなかった理由を分析、5000体売れたらこのビジネスプランでやらせてくれ、という依頼をして、販売計画は了承された。

・失敗に至った経緯 ソニーショックの余波を受けロボット事業がコア事業から外される
販売開始直後、17分で5000体が完売。2000年から月産10000台に踏み切る。しかし、思った以上に市場は伸びず、2003年時点で販売台数は十数万台と初期の期待値に反して苦戦を続ける。2003年4月にはソニーショックソニーの経営危機が囁かれ、リストラ策として事業の取捨選択に舵を切る。ソニーは、エレクトロニクス事業の再建を最優先課題とし、8事業をリストラの対象として発表。ロボット事業も対象となっていた。社長はもともとハードウェアに反対だったということもあり、余裕を失ったソニーの再建ストーリーとロボット事業は整合性がとれなくなってきた。2004年には2足歩行ロボットのQRIOの発売中止が決定され、2006年にはAIBOの生産中止が決まった。世界で15万体売れ、まだ熱狂的なファンがいる状態で表舞台から消えることとなった。

・原因 短期的収益が期待できない商品が、短期的収益を求められる環境に置かれてしまった
べき論でいうと、AIBOのような「役に立たないロボット」という新たなカテゴリーの商品・サービスは規模や収益という判断軸だけで短期的に答えを出すべきではない。自社以外のサードパーティも含めた「エコシステム」が育ち、ビジネスとして採算がとれるようになるにはそれなりの時間がかかる。消費者にとっても必需品でないので、最初は理解がされにくい。だからこそ企業側もそれを理解して長い目で見て待ち、育てなくてはいけない。収益だけのモノサシだけで測れば、AIBOのような商品は役に立たない事業になってしまう。このころのソニーには、判断尺度に「遊び」がなく短期的な収益というモノサシしかなかった。AIBOの撤退は、そのモノサシで測られてしまった結果の悲劇といえる。
後日談として、2018年、aiboとしてバージョンアップしたロボットが再登場する。復活するソニーというストーリーに整合する、また最高益を出したソニーブランドへの期待値を高めるために、「遊び心」や「ユニークさの追求」というシンボルが必要だった。新生aiboは、経営のストーリーと整合したからこそ、復活したといえる。
aiboの開発には、製品そのもののコンセプトや開発の約束事項など抽象的なAIBOのDNAを意図的に踏襲していると開発責任者は言っている。aiboと共通するロボティクスの要素技術は多いということで、ドローンの「エアピーク」やEVの試作車「VISION-s」の開発にも手を伸ばしていて、aibo開発を通じて得たハードウェアとソフトウェアの融合にさらなる展開の可能性を見出している。今後、これらの新事業は、ソニー経営陣の真の力量が問われるサービスになる。

・メッセージ
企業内の新規事業は、対マーケットにおける事業価値と、対経営陣の事業価値の両方が重要。どれだけマーケットでポテンシャルがあったとして、対経営陣で文脈に乗らなければ新規事業として存続できない。
AIBOからaibo。失敗から十分学んで、アセットを活用できているので、この点はとても重要だと思う。

 

15 ネットフリックス クイックスター 反対意見が言いにくい空気に気づけず失敗
・製品 DVDレンタルを切り離した事業 2011年
ネットフリックスはDVDレンタル事業で急成長を遂げ、2011年にクイックスターという子会社を立ち上げ、DVDレンタル事業を移し、ネットフリックス自身は動画ストリーミングサービスに注力することにした。これまで、DVDレンタル+ストリーミングサービスで10ドルだったものを分離して、DVDレンタルとストリーミングサービスをそれぞれ約8ドルにするという強気な価格設定を断行した。店舗型レンタル事業の巨人であったブロックバスター社が、オンライン化への変化の波についていけず、2010年に倒産してしまったように、やがてくるストリーミング市場の主戦場化にそなえてのことだった。DVDレンタルビジネスと、ストリーミングビジネスは、コスト構造が全く異なる。なので、このコスト構造が異なる事業を切り離し、それぞれに柔軟な対応ができるようにした方がよいと考えた。クイックスターには、DVD郵送に加え、WiiPS3といったゲームソフトのレンタルも始め、郵送レンタル全般を事業ドメインと定めた。双方だと、約16ドルという契約だが、片方であれば8ドルと現行の2割程度の値下げとなる。ネットフリックスの問いはシンプルで、「いつ、いかにしてネットフリックスをストリーミング企業へと進化させるか」ということだった。その答えは「なるべく早く」ということだった。

・失敗に至った経緯 ローンチ前に株価が暴落 白紙撤回という大惨事に
クイックスターの施策は、リークによって値上げ部分だけが注目され、SNSで拡散され炎上状態のままスタートを切ることとなった。鎮火のために、分離の背景と値下げとなるユーザも存在することを説明した動画をyoutubeにアップした。しかし、手軽なビデオカメラで撮影されたような映像と、しわくちゃのビーチシャツ姿は、さらなる炎上を呼び、パロディ化されるほどだった。批判の矛先は消費者軽視のスタンス。当時、ネットフリックスのコアユーザーは最新作はタイムリーにDVDでレンタル視聴し、旧作はストリーミングで手軽に見るというスタイルが中心だった。これまで消費者に寄り添い、「気軽に、映画を、楽しく(Movie Enjoyment Mada Easy)」というブランドプロミスを守ることで成長してきたネットフリックスだからこそ、消費者不在の決定に対する反発は大きいものがあった。この発表で、数日の間に100万人の顧客を失ったといわれ、株価は305ドルから65ドルまで下落した。この結果を受けて、分離計画を諦めざるを得なかった。

・原因 方向性は正しかったが、タイミングも組み合わせも伝え方も最悪だった
結果として散々ではあったものの、いち早くビジネスモデルをDXさせたいと考え、サービスを分離することは合理的ではある。クリステンセンは、新規事業が失敗する理由を、既存事業のために最適化された「資源・プロセス・価値基準」をそのまま使いまわしてしまうからだ、と述べた。なので、サービスの分離は定石に沿うもの。では何が失敗だったのか。それは、意識決定のタイミング、施策の組み合わせ、伝え方の3つ。
2011年の時点で、コアユーザの大半は両方のサービスを行き来していた、つまり、分離による不利益を与える影響が著しく大きいタイミングだった。さらに、値上げという更なる不利益との組み合わせ。そしてあまりにラフでくだけたスタイルで伝えてしまった。消費者からすると、自分たちが軽んじられたと受け取るのは当然のこと。重要なターニングポイントであまりに無防備すぎた。おそらく、合理性を優先して、消費者感情への配慮を軽視してしまったのでしょう。
後日、ヘイスティングスは、社内であまりに自分が尊大になりすぎていたことに気づく。クイックスターは絶対に失敗すると思っていたにもかかわらず、言っても無駄だと思い口をつぐんでいた役員や社員が多数いた事実を知ったため。
ヘイスティングスは真摯な反省をもとに、ネットフリックス・イノベーション・サイクルという規律の1番目に、「反対意見を募る」という項目を入れる。誰かの狭い視野だけで意思決定が歪められないように、新たなアイデアが出た場合には必ず反対意見を受け入れるプロセスを組み込んだ。素晴らしい。この騒動を経て、今のネットフリックスの成長がある。

・メッセージ
トップが尊大になりすぎると、健全なコミュニケーションが取れなくなり、重要な意思決定さえもが拙速に行われうると危険性を伝えてくれる。たとえ方向性が合理的であっても重要な経営意思決定は、多様な視点から議論され、慎重になされるべきもの。だからこそ、ヘイスティングスはプロセスに反対意見を募るという項目を取り入れ、視野を広げることを担保した。方向性に合理性があっても、落とし穴(ここでは消費者感情やタイミング)を甘く見てはいけない。意思決定の質を高めるには、反対意見を言える仕組みを担保することが必要。うーん、この反対意見を募るってのは、賛否あるな。確かにそうだけど、本当はうまくいくものも反対意見によって実行されない恐れがある。バランスといえばそれまでだけど・・・。

 

まとめ 社内不全を学ぶ
自社だけが特別思考という思考は、視野狭窄であり、組織全体が内向きになり、学習意欲がなくなっていく。これは、市場起点でPDCAが廻らず同じ失敗を繰り返す可能性が高い。
AIBOからaiboへの活かされ方は、感動する。同じように、ユニクロのスキップからGUの話も感動。
企業内の新規事業は、市場はもちろん経営陣のストーリーとも整合性を合わせる必要がある。そうでないとすぐにNGをくらうくらい脆弱な立場。
方向性にどれだけ合理性があろうと、重要な意思決定は多様な視点から議論され慎重になされるべきもの。この場合は、タイミングや伝え方がまずかった。念入りに、念入りに。

 

<事業を取り巻く力学編>
■大きな力学を学ぶ PEST 私たちは事業が成立している大前提を理解しているだろうか? 基本的に企業のコントロール
16 サムスングループ サムスン自動車 経済危機に見舞われて失敗
・製品 日産との提携によって念願の自動車産業への参入 1995年
1994年には、低価格を武器にして、アジアや中南米などの新興市場への輸出を進め、230万台の生産台数に達する。これは、世界第6位の自動車生産国を意味する。韓国の輸出競争力が高まれば、欧米諸国から韓国市場の開放圧力は高くなる。ちょうどOECDへ加盟申請中という状況だった韓国政府は、外圧を受けて自動車輸入の自由化を進めることを決意。一層のグローバル化を推進していけば、やがて日本を追い越すことができるかもしれないという、サムスンからの申し出は国策に符合するものだった。電子、化学、金融、機械といった主要事業はあったが、自動車産業の技術などのノウハウはない。その提携先として、日産が本命だった。日産は赤字続きだったため、将来の競合を育てるかもしれないリスクを抱えても、ロイヤルティーなどが魅力的だったため、提携を決意。2010年には世界10位以内の自動車メーカーに成長することを目指していた。

・失敗に至った経緯 IMF危機により単独の生き残りを果たせず、ルノーに吸収される
アジア通貨危機を発端にして韓国にも広がった経済危機。韓国国内で倒産が相次ぎ、第一銀行までも破綻。韓国の国家信用格付けは下方修正され、株価暴落と外資企業の引き上げに至る。1997年には韓国政府がIMFへ救済を申請する事態となった。これにより、国内市場は急速に縮み、生産能力400万台に対し、需要は100万台あるかどうか。このような中、韓国政府は自サムスン、LG、現代の三大財閥の事業縮小や財務健全化を目的とした改革に着手。ビッグディールを通じて、財閥がそれぞれ特定の産業に集中して大規模化を進めていけば、国際競争力を高められるのではないか・・・。そう考えて、政府主導で抜本的なテコ入れをしようとした。しかし諦められないサムスンは、スタートダッシュで実績を積み上げていく方策を取る。しかし、それなりに注目はされたものの、コストを無視していたため、1台売るたびに13万円の損失が出る構造であり、どんどんサムスンの資金力を削っていった。逆転カードとして、既に破綻した起亜自動車の買収があった。しかしこれも、現代が買収権を得て、万策尽きたため、ビッグディールに応じて、自動車事業を渡すはずだった。しかし、労働者や下請けが反発し、交渉が暗礁に乗り上げて、結局ビッグディールは白紙化された。2004年にルノーに買収され、ルノーの参加として活動をすることになった。

・原因 韓国の産業構造の脆弱さを軽視し、結果的に最悪なタイミングで参入
抗えない大きな時代の流れに巻き込まれてしまった、数年後に来るアジア通貨危機を予想するのは難しい。その意味からすれば、やむを得なかったことだったかもしれない。ただ、韓国経済の構造的な問題はすでに顕在化していた。財閥企業は借り入れ依存体質、そしてタコ足経営とまで揶揄される節操のない事業拡大といった、脆弱な体質の上に成り立っていた状況。財務体力以上の投資がされ続けていた。このような脆弱さは考慮できたはずなので、意思決定は慎重になるべきだったかも。後講釈だけども。その後「サムスンでは車輪がついた製品は作らない」という不文律が公然と知られるほど。ただし、2016年には、米自動車部品メーカーを買収して、カーエレクトロニクス分野に進出している。

・メッセージ
我々のビジネスは、独立して動いているものはない。必ず何か大きな力学の影響を受けている。自分の関わっている事業がどれだけ単品でよい事業であっても、その周囲の風向きが変われば、一気に事業として成立しなくなってしまう可能性がある。自分たちは大きな連鎖の中で生かされている存在でもある。その連鎖の広がりを理解することの重要性をこの事例は気づかせてくれるのかもしれない。特に、グローバリゼーションの影響を受けるビジネスは、国際動向の変化を理解する力が求められる。
あまりに大きい意味になってしまうが、「タイミング」はとても重要。

 

17 ゼネラル・エレクトリック プレディックス 顧客の準備が整わず悪循環に突入して失敗
・製品 IoTソフトウェアの新しいプラットフォーム 2016年
GEはエジソンが創業した製造業。家電や重電を取り扱う総合電機メーカーからコングロマリットへと変身し、多角化は業績的には大成功、GEは企業変革におけるお手本のような存在だった。しかし、後にリーマンショックにより金融事業が大きな打撃を受けたことで、改めて産業機器製造に回帰する意思決定を行う。この際、金融や映画、白物家電から徹底を決めるとともに、単なる産業機器製造への回帰ではなく、「デジタル・インダストリアル・カンパニー」としてデジタル化に向けた変革を志す。2011年にはシリコンバレーにソフトウェアの研究開発部門を開設し、GEのバラバラだった組織をシリコンバレーへ一元化した。そしてデジタル化を一気に推進した。具体的には、産業機器にセンサーを取り付け、そのデータをインターネット経由で常時把握し分析することで、顧客企業の生産性や稼働率向上を図るというもの。コマツのコムトラックスに似てる。例えば、飛行機に数100個のセンサーを取り付け、理想的な操縦方法を指南することで燃費が良くなり燃料コストの大幅な削減などをメリットとして提供する。エンジンや保守で稼ぐのではなく、具体的なソリューション提案まで含めてサービスを提供するという、大幅なビジネスモデルの転換だった。この段階で、既に産業ごとに特化したアプリケーションを数多く出しており、そのなかで共通化できるものがあった。これら共通項となるソフトウェアの部品や稼働環境を「プラットフォーム」と位置づけ、GEで開発するアプリ全体の品質を高め、開発スピードを加速できるようにするプラットフォームがプレディックス。これが2013年。このようにもともと社内の開発用だったが、インダストリー4.0やIoTという言葉とともに産業機器ビジネスにおけるデジタル化の流れがトレンドとなっていく過程で、GEはプラットフォームの可能性を感じるようになる。そして、2016年に、PaaSとしてプレディックスをクラウドサービスとして外部に公開、外販することを意思決定した。もともとGEはGE製のハードウェア+ソフトウェアで成立していたが、プレディックスのビジネスにはもはや産業機械というハードウェアの存在はなくて、ソフトウェアだけで成立するビジネスモデルであった。売上高を150億ドルと定め、ソフトウェア企業として世界トップ10に入ることを目標とした。

・失敗に至った経緯 本体の不振に引きずられ部門ごと分社化へ
構想としては、産業用のソフトウェアをまとめて提供するプラットフォームを目指した。アップルのように。しかし、苦戦を強いられる。産業用ハードウェアの世界はあまりに広く、領域ごと、地域ごとの個別性が高いため、どこまで固有の状況を想定した設計にするかという問題に直面する。その中でプレディックスは汎用性を高めて規模拡大を追求する方針を取った結果、アプリケーション開発者やユーザ側のニーズに十分合致しなくなった。つまり、特定の課題解決をしたい顧客にとって、「なんでもできる」「拡張可能性がある」「将来的にデータからソリューションが見つかるかもしれない」というプレディックスではなく、より安いコストで自社の課題に最適化した小回りの利くアプリケーションを選んだ。また、実際のプレディックスは、GE製品のハイエンドな発電設備や航空機エンジンなどを前提に作られていたこともあり、関連の薄い業界に対しては十分に想定されていないつくりになってしまった。結果的にプレディックスはオープンなプラットフォームとは程遠い存在となった。最終的に、売上目標150億ドルのところ5億ドルにとどまった。そんな中、GE本体も主力事業である電力事業が脱化石燃料の逆風で減益となり、株価は低迷。社長は退任へ。そして2018年、また新たな新社長は、中核事業に集中するためにデジタル事業を分離することを発表、プレディックスは分社化された。

・原因 コンセプト先行で急ぎすぎたがゆえの失敗
いち早くGEのDXに舵を切ったイメルトの方向性はけして間違ってはいなかった。では何が問題だったのか?一つ誤算は、このタイミングでそもそもGEのハードウェアが売れなくなってしまったこと。GE製のハードウェアと連動性の高いサービスだったプレディックスは、引きずられるように低迷していく。もうひとつは、掲げた目標設定があまりに野心的過ぎたこと。産業機器アプリケーションは個別性が高い市場であること、さらに顧客側が当時データに基づくソリューション導入に向けた準備ができていなかったことが背景としてある。まだ、現場のハードウェアと向き合いながら、改善を重ねた地道なコミュニケーションを通じた対話が必要なステージだった。産業機器業界において、アップルのようなプラットフォーマーになるというコンセプトは、もっと時間とコストがかかるものであり、スピーディーに事業の軸足を移すということは無理のある設定だったのではないか。その中で、営業現場では「顧客の課題ありき」ではなく「プラットフォームありき」のプッシュ販売を仕掛けていく、という悪循環に突入していった。

・メッセージ
この失敗の最大のポイントは、「ビジネスアイデアそのものは悪くないが、野心的な目標が先走りした結果、顧客の準備が整うことを待てず、結果的に顧客視点の欠如に陥ってしまう」ということ。見渡すと多くの野心的なコンセプトの先走りが見つかるが、果たしてそのコンセプトはどれくらいの規模と時間軸で考えられたものでしょうか?それはビジネスの実態とどれくらい整合しているでしょうか?プレディックスの事例は、そういった企業のビジネスモデル変革において必要な論点を現実的な視点でチェックすることの重要性を教えてくれる。
大きな変革は方向性はもちろん、規模や時間軸も重要な論点となる。顧客の準備が整っていない段階での変革は、自社都合の押し売りになる可能性があるので注意。

 

18 アップル ニュートン 主要事業の不調で無理な勝負を迫られ失敗
・製品 情報家電という領域を切り拓いた革新的商品 iPhoneiPadを先取りしたような商品 1993年
1993年に、7万円から10万円で販売。情報家電という領域は、やがて3兆ドルという巨大市場ができることを予測した結果の、開発・販売だった。これでも、開発が難航して、発売時期が大きくずれ込んだ。

・失敗に至った経緯 市場の高い期待に応えられず、アップル混迷の中に消える
ニュートン発売直後は数千台を受注するという上々のスタートだったが、同時期に主力事業であるPCの不調によりアップルは赤字に転落してしまった。価格競争で置いて行かれた。ニュートンにばかり注力していたスカリーは退任し、最大の後見人であり支持者を失った。ニュートンの売上は伸び悩み、ニュートンの開発責任者は責任を取って退職した。なぜ売れ行き不振だったのか。それはまずは手書き文字の認識機能が不十分だった。学習機能を持っていたため、使い込むことで認識力が高まるが、それだけに店頭では認識能力は低く、購入を躊躇させた。中途半端な手書き入力は、キーボードと比較しストレスのたまるものだった。さらに、電話回線と接続するモデムなどを揃えるとゆうに1000ドルを超え、家電の相場観からすれば割高であり、決して気軽に買える金額ではなかった。1995年にはニュートンの第2世代機種を投入するが、市場は反応しなかった。この時期、もはやアップルはニュートンどころではなく、主力のPC事業のマック離れを受け、単独では生き残れないのでは、という論調が社内外で発生。そんな中でニュートンは静かに放置された状態となった。新社長は、その時点でPC事業の自力立て直しは不可能で、特にOS開発は外部パートナーが必要と判断。そのパートナーが、スティーブ・ジョブズが率いるネクスト社であった。やがてジョブズはアップルの経営に返り咲く。1998年に、アップルはニュートンの開発を打ち切ることを決定した。

・原因 当初の狙いはよかったが育てられる環境ではなかった
経営環境が変わり、ニュートンに対する期待値が変わったことが、市場から受け入れられなかった原因。1992年のアップル自身、普及にはまだ相当時間がかかると言っており、当面はニッチ製品として販売していくことを宣言している。ニーズが顕在化していない中での革新性の高い製品だからこそ、まずはコアユーザをターゲットに立ち上げ、時間をかけて顧客を取り込んでいくということを考えていた。この長期を見据えた野心は、時代を先取りしすぎたとは言えない。では、失敗の要因は何か。それは、アップルはPDAの構想以降、急激に本業のPCが不振となり、経営危機に陥って、ニッチ商品を丁寧に育てていくような状態ではなくなったから。明日にでも売上が欲しい状況になってしまった。製品開発時は、時代を先取りした革新的商品だとしても、改めてターゲット顧客を広げる方向になれば、製品コンセプトそのものも大きく変更する必要が出てくる。ちょうど、ターゲット変更の議論をじっくり行うべきタイミングで、PDA構想者が退任させらてしまった。
なんか、ソニーAIBOと似ているな・・・

・メッセージ
この事例は、経営と新製品のタイミングの重要性を教えてくれる。ニュートン自身はイノベーティブな製品だったといえるが、イノベーションは、製品単体だけでなく、製品を支える経営環境がすべて整ったタイミングで起きる。Jカーブといわれ、製品が革新的であればあるほど、初期段階では長く赤字の谷が続き、ニーズが顕在化した段階で飛躍的な成長を遂げる。そのタイミングまで、企業が粘りづよくふ化を待つことができるのか、という論点を見過ごしてはいけない。製品の品質を高めていくことはもちろん、経営全体におけるキャッシュの状態も含めた経営課題の所在を確認しておく必要がある。

 

19 モトローラほか イリジウム 課題の賞味期限が見極め困難に陥って失敗
・製品 モトローラの携帯電話 1998年
「世界中、極地でも海上でもどこでも使える携帯電話」として1998年に販売開始となった製品。1980年代後半は、アナログベースのセルラー方式の携帯電話がようやく普及し始めた段階。衛星によって全世界の通信を一気にカバーするといったアイデアは、技術的なリスクは大きいものの、大きなポテンシャルを感じさせるものだった。衛星の中でも、低軌道のものであれば、比較的伝送遅延が少なく、ビジネスチャンスが十分にあった。検討は、ほぼ反対で、衛星の製造、打ち上げ、維持に関わる投資額が巨大で収支が合わないため。ただ、会長の強い意向でやることになった。(衛星を77基上げる予定で、その原子番号イリジウムが、このプロジェクト名になった)。全体で16億ドル、さらに1996年には3億ドル、1997年には2億ドルの調達を行い、世界中の通信事業への新規参入企業や各国のセカンドキャリアが共同事業体を組み、資本参加した。この低軌道衛星を活用する事業は、言うまでもなく複雑で難易度が高いもの。一方で限られた資金や期間といった制約があったため、設計から製造にかけて不眠不休の作業が続いた。50億ドルもの投資を経て、1997年、衛星の打ち上げに成功。1998年にサービス開始することになった。

・失敗に至った経緯 全く使えない携帯電話。加入者が伸び悩み1年待たずに倒産
イリジウムの携帯電話は、約450g、小売価格は3000ドル(43万2000円)だった。通信料金は、1分当たり3ドル~8ドル。100万人の契約で採算ラインに乗るという計算だった。なお、当時の通常の携帯電話は、約100g、小売価格は150ドル、通話料金は、1分当たり1.6ドルだった。イリジウムのはみ出した感がわかる。サービス開始から約半年後の1999年4月段階の加入者は、わずか1万人という結果だった。伸び悩みの一つに、遮蔽物がある電波環境では利用できず、移動中の車や建物の中でも利用できなかった。遮蔽物がなくても、携帯の位置やアンテナ角度を微調整する必要があった。さらに、ソフトウェア開発でも、タイトなスケジュールのためバグを除去しきれないという状況だった。結局、借入に対する利子4000万ドルという多額を抱え込み、資金繰りは廻らなくなる。1998年8月に、サービス開始から1年も持たず、加入者わずが2万人のままイリジウムは破産申請をするのだった。

・原因 構想からローンチまでの間に「課題」が消えてしまった
「課題の賞味期限」を見極めることができなかったから。1990年の段階で、確かに「世界中でスムーズに会話ができない」という課題は存在していた。ただし、ローンチの1998年にはその課題はなくなっていた。つまり、既存の技術革新によりほぼ解消されていた。だから、多くのユーザによってわざわざコストがかかり不便なイリジウムを契約する必要性がなかった。では、なぜ賞味期限が見極められないのか。それは2つの見通しが簡単にはできないから。ひとつは、自社がその技術を確立させるまでのスピード。もうひとつは、既存技術の改善の可能性。さらに自社の技術確立のスピードを冷静に見積もったとしても、その期間が長くなればなるほど、他社が簡単に追随できるはずがないという、バイアスが働いてしまう可能性もある。イリジウムは、企画構想からローンチまで約10年かかった。1990年代中盤から後半にかけて、携帯電話が世間に普及する過程での通信状況の改善や通信機器の軽量化、グローバル化、そして利用料金の低下のスピードは凄まじいものがあった。これを1990年の段階で予測できたかといえば・・・占いレベルに近い話だっただろう。技術革新を横目で見てて、イリジウムのサービスレベルも理解したうえで、サービスをローンチしたのは、おいそらく設備投資が大きすぎて今更株価を下げることもできず、どうしようもなかったからかもしれない。

・メッセージ
このようなサービスも、もし成功していれば、理想的な成功ストーリーとして語られていただろう。どの技術に欠けるのか、という意思決定の重要さと難しさを痛感する。結果だけ見れば、この野心的なビジネスは責められるべきなのだろう。誰も未来を予測はできない。だからこそ、常に「課題の賞味期限」を疑い続けること、そして特に既存ソリューションの改善速度を侮らないことは念頭に置く必要がある。
新たな技術によって課題解決する場合には、課題の賞味期限に注意すべき。これは、新たな技術確立のスピードと、既存の技術革新のスピードを見極めることで測定できる。新たな技術確立が長くなればなるほど、判断や成功の難易度は上がる。

 

20 トヨタ自動車 パブリカ 高度経済成長期のスピードについていけず失敗
・製品 国民車構想を具現化した日本中が待望した大衆車 1961年
1961年、38万9000円という当時としては破格の安値で販売された。機能性と経済性を両立させた大衆車となりうる一台としてこの新商品には大いに注目が集まった。
1950年代当時、自動車業界には、自動車輸入の自由化というイシューが存在していた。通産省は、まだ弱小であった日本の自動車産業の生き残りをかけて、国産車の早急な性能向上と国民への普及を目指していた。当時、大卒初任給が1万5700円という時代に、1955年発売のクラウンは98万円、57年のコロナは60万円台と、とても一般大衆が手を出せるような金額ではなかった。大衆に普及という観点でいえば、安価でなくてはならない。そこで、量産に適した一台を選定し、財政資金を投入して国際競争力を持つ車を国策として育成していくという「国民車構想」を企画する。具体的条件は、いろいろあり、価格は25万円いかというものだった。実際には、コストを積み上げるとどうしても40万円を超えるため、構想そのものは幻に終わるが、この構想を受けて、大衆車が必要というニーズの中、各社がしのぎを削るようになった。このような時代背景の中、トヨタの問題意識も大衆車の開発にあった。やはり、機能と価格の両立のバランスに苦慮するが、1960年10月には、コストも性能を期待レベルに達した自動車が完成する。公募で決めたその車の名が、パブリカ。価格は、38万9000円と、当時としては軽自動車なみにおさえた経済性の高い車だった。月産3000台で採算ラインに乗るという戦略的な価格設定だった。

・失敗に至った経緯 高度経済成長によって変化した大衆のニーズとのミスマッチ
販売台数は、2000台程度と、採算ラインにも乗らないほどだった。その理由は、当時高度経済成長期の真っただ中で、1960年には内閣が「所得倍増計画」打ち出したタイミングだったのだが、低コストを実現するために、外装にはメッキ部品を使わず、内装ではヒーターやラジオは無し、燃料計やサイドミラーでさえ標準装備から外した質素すぎる内外装だったから。その時代の変わり目で、マイカーという新たな贅沢品に夢を見出した大衆が抱く期待と、質素なパブリカのイメージには、ミスマッチが発生していた。実際、販売店からも「豪華な感じがしない車では客の心はつかめない」と苦情が集まっていた。トヨタは、「開発を始めた当時と売り出した時とでは、社会環境はがらりと変わり、時代の要求とズレてしまった」と語った。開発は1955年、販売は1961年とこの6年の間に消費者ニーズはこうも大きく変わってしまった。
販売から1年後の1962年には、トヨタはパブリカよりもより一つ上のグレードで大衆車の座を勝ち取るために、開発構想を作っていた。パブリカの反省を生かし、多少価格を上げてでもユーザが求めるものを標準装備と定めた。排気量も1100ccと大型化させ、変速ワイパーやガソリン警告ランプなども取り入れた。これは、1966年に販売され、これがカローラである。日産も1966年にサニーを投入した。サニーは、トヨタがパブリカのモデルチェンジをすると見込んで開発されたので、より重厚感とラグジュアリー感のあるように設定されていたが、実際はカローラという新車で、サニーよりも100ccパワーが大きい。この電光石火の開発と差別化戦略、かつ月産2万台という急発進で、トヨタカローラを通じて一気に市場を奪うことに成功した。さすがのトヨタPDCAが早いし、精度も高い。
初代パブリカのDNAは、スターレットヴィッツに継承されていった。そう考えると、長い時間軸で見れば、パブリカは大きな意味のあるものだったといえる。

・原因 高度経済成長期にニーズを読むのは動く標的を狙うような難事業だった
高度経済成長期のように、ユーザのニーズが大きく変化する環境では、大衆のニーズはわずが数年のうちに大きく変わってしまう。数年の開発期間がかかることを考えると、当時のニーズ予測の難しさはまるで「動く標的」を遠くから狙うようなものだったと想像できる。では、このような時代に何をすべきか?それは、さすがのトヨタ。失敗を通じて学習し、そしてその学びからより確度の高い渾身の一手をすぐに打つこと。言い換えれば、最初の一手は失敗するものとして、次の一手に勝負をかけるということ。逆に、一番やってはいけないことは、動きが落ち着くまで何もしないということ、それと一度打った手にこだわり続けること。この二つのことは、「実践を通じた活きた学びの獲得と、さらなる実践」という何より貴重な機会をみすみす失ってしまうことにつながる(お金と時間をかけた財産、学習の損失)。この事例でも、トヨタはパブリカを出すことで大衆のニーズのストライクゾーンが理解でき、すぐに次の一手を打てたからこそ、カローラというトヨタの屋台骨となる製品を生み出すことができた。
経験学習理論というものがあり、4段階のステップを繰り返すことで学び、成長していくと定義されている。「具体的経験」「内省的省察」「抽象的概念化」「積極的実践」の4ステップ。この事例は、トヨタにおけるパブリカの「失敗」には「経験から学習する」方法のヒントが詰まっているといえる。

・メッセージ
VUCAと呼ばれる先行きの見えない時代にいる我々にとって、パブリカの最大のメッセージは、とある製品やサービスの失敗は単に通過点でしかないということ。その失敗から正しく学び、乾坤一擲のアクションを打てれば、大きな成功ストーリへと消化するということでしょう。・・・というよりも、失敗を通過点をするように行動していくことを考えていくべき。失敗はとても痛い。コスト的にも精神的にも。それでも、この失敗があったからこそ次のアクションを起こし、成功に導くことが大切なのではないかと思う。
キャリアでも同じこと。良いキャリアを築くためのセオリーは、行動して軌道修正すること。この事例から前に動き出す勇気を学ぶことができる。
変化のスピードが激しい時代において、仮説を持ってまずアクションをすることが重要で、その上で打ち手から具体的なヒントを見出すこと。そのヒントから学んだら、乾坤一擲の打ち手をスピーディーに打つことが成功につながる。

 

まとめ 大きな力学を学ぶ
PEST分析は、戦略立案プロセスにおいて一般的なステップだと思うが、実践レベルではとてもハードであることが分かる。それでもその中から示唆を得ているのがこの章の内容。
自分たちは大きな連鎖の中で生かされている存在でもある。その連鎖の広がりを理解することの重要性を
あまりに大きい意味になってしまうが、「タイミング」はとても重要。
「ビジネスアイデアそのものは悪くなくても、野心的な目標が先走りした結果、顧客の準備が整うことを待てず、結果的に顧客視点の欠如に陥ってしまう」ことがある。プレディックス。
イノベーションは、製品単体だけでなく、製品を支える経営環境がすべて整ったタイミングで起きる。孵化まで時間がかかる(Jカーブ)。
常に「課題の賞味期限」を疑い続けること、そして特に既存ソリューションの改善速度を侮らないことは念頭に置く必要がある。
変化のスピードが激しい時代において、仮説を持ってまずアクションをすることが重要で、その上で打ち手から具体的なヒントを見出すこと。そのヒントから学んだら、乾坤一擲の打ち手をスピーディーに打つことが成功につながる。失敗は通過点。

 

■おわりに
深く考えろ、とよく言われる。どうすれば「深く」考えることができるのか?深さを認識するには、二つの目が必要になる。一つの目しかなければ、物事を平面的にしか捉えることができない。二つの視点は、例えば短期視点と長期視点。現場視点と経営視点。深く考えるとは、このように相反する複数の視点を持って、バランスよくビジネスを見るということ。この本で紹介している失敗事例は、後日談として新たな成功への入り口になっていることが語られている。それは、失敗によって事業の見方に「深さ」をもたらしてくれているからだと理解することができる。
現在、我々を取り巻く環境は大きく変わった。この変化によって期待通りの成果を上げられずに撤退や縮小を余儀なくされた案件も多いことだろう。しかし、その経験は、やがて私たちに「奥行きの深い視野」を授けてくれる。前向きな学びを得ることができれば、財産になる。

 

【この本を読んだ感想やまとめ】
失敗を前向きに捉え、次の一歩を踏み出す勇気をくれるような、そんな印象を受けた。特に印象に残っているのが、ファーストリテイリングのスキップの社長をやった、GUでの快進撃の話。これは、まさにそれで、お金と時間をかけた失敗を財産として学びに変えて、次の成功へと導いている。リスクを考えて行動しない、というのは正しいスタンスではない。リスクとリターンをきちんと判断する、仮に失敗してもそこから学び、次へ活かすことがとても、とっても重要である。Wii Uドリキャス、セブンペイ、HD DVDと、たくさん知っている製品やサービスが出てきて、それに対する事業の裏側みたいなのがしれて、とても興味深かった。例えば、HD DVDがどういう状況で、なんでブルーレイに市場を奪われたのかなんて、当時はよくわかっていなかった。それがこのような形で知ることができてよかった。セブンペイなど比較的新しいものから、パブリカなど古いものまであって、かつ世界の製品が対象でよかった。AMAZONのファイアフォンなんて、いまでも出てきそうなアイディアだったりするし。サムスンの自動車事業参入なんてうまくいくと思うし。そういうものでも、事実として失敗していて、それなりの原因があるってこと(再現性のある失敗かどうかは、置いておく。)そうなると、岩田さんが自信を持って言っていた、幸運を引き寄せる努力を任天堂という会社全体がものすごくしている、という言葉を思い出す。タイミングとか、時間軸とか、失敗の要素はたくさんあるんだけど、そのときの市場によって、要素の変数が大きく変わる。だから、同じことをやっても、時代やタイミングによっては成功してしまうこともあれば失敗もある。なので、その市場とのタイミング、それが幸運であり、それを引き寄せるための努力はしていかないといけないと思った。

 

【今後活かせること、具体的なアクション】
これから起こそうとしている判断やアクションが、この失敗事例にあるような類似事例とならないか確認する。
類似事例となった場合、当時と現在の市場の状態、リソースなど十分に確認して、絶対に同じ状況にならないようにする。

 

【気に入った文章・言葉を3つ】
深さを認識するには、二つの目が必要になる。一つの目しかなければ、物事を平面的にしか捉えることができない。
短期的には失敗に見えることも、その学びを活かせば長期的には次の機会につながっていく。
ビジネスが必勝を義務付けられているとき、いつしか立てたシナリオに願望が侵入してきてしまうことは必然。

 

【こんな人に読んでほしい】
失敗を漠然と恐れている人
失敗には科学的に根拠があると思っている人
失敗から学ぶことの重要性を知りたい人
次へと歩みだしたい人